先日に引き続き,映画ガタカの二次創作小説の第二弾です。二次創作楽しいです…楽しすぎます。
今回もヴィンセント/ユージーンです。タイタン行きが決まった後のヴィンセントとユージーンの内面の動きにフォーカスしたお話です。
二次創作にご理解のある方は「続きを読む」あるいはスクロールから,どうぞご覧ください。(^^)v
ウォッカと涙
「君のことを誇りに思うよ、ヴィンセント」
ユージーンがそう言ったとき、ヴィンセントは相手が何を考えているのかすぐにはわからなかった。日々を一緒に過ごす中で、彼らは言葉を交わさずとも、うなずきや目くばせ、沈黙によって意思を通じるすべを互いに見出していたから、相手の考えを読むのは容易だった。一度も口に出したことはなくとも、互いがいかなる予感のなかに身を置いているのかさえも、意識の深いレベルでは理解するようになってきていた。わかったところで、いまさら何かを変えられるはずはなかったが。
タイタン行きを決めたのは、ヴィンセントではなく、“ジェローム”の、二人の功績だった。ヴィンセントはすでに“ヴィンセントではなくなっていた”から、ユージーンからその名前で呼ばれたとき、ヴィンセントは、自分が地上に本当の彼を知る者を一人残してタイタンへ向かおうとしていることを、いまさらのように思い知らされた。心臓のあたりに微かなざわめきが起こる。夢が叶いそうになった今、それがもうすぐ実現できるという今になって、どうしてこれほど地上を離れがたく思えるんだろう?
「僕をその名で呼ぶなんて、君は相当酔ってるな」
返事はなかった。ユージーンは一・二秒という時間、酩酊し焦点の定まらない目でヴィンセントを見つめる。それから、あいまいに微笑んで、気絶するようにベッドの上へ倒れこんだ。ヴィンセントが寝室の灯を消して立ち去り、今夜はそれで終わりのはずだった。明日も朝早くから“身支度”が待っている。
ヴィンセントが部屋から出ていこうとしたとき、後ろから吐き気を催したような声が漏れるのが聞こえた。これは来るぞ、とヴィンセントは思う。ふりかえるとベッドの上では今にも吐きそうな顔のユージーンが頭を抱えていた。ヴィンセントはやれやれ大変だとキッチンではなく洗面所へ直行する。洗面所のすぐ横に備え付けられた家庭用にしてはばかでかい冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、パートナーのもとへ戻る。
「赤ワインをあんな風にがぶ飲みするのがいけないんだよ、まったく君としたことがまずったことをしたと思わないか? 僕がいなくなっても君がやっていけるのか……あまり心配をかけさせないでくれよ。ほら、水を飲んで。そしたらもう寝るんだ」
ユージーンが不服そうに睨み、ヴィンセントの手からボトルを受け取る。あっという間に飲み干す。
「君はいい加減、酒に対して自制心を覚えたほうがいいだろうね。僕がいなくなったあとに君の面倒を見るのは君だけなんだから」
「うるさい」
「誰かここへ呼ぶことも考えてみたら?」
「誰かって?」
「まあ、そうだな。お金を払わなくても君のことを気にかけてくれる人だよ。いわゆる、ガールフレンド……」再度きつく睨まれ、ヴィンセントは口をつぐむ。空のボトルをヴィンセントに手渡し、一息ついた様子のユージーンが続ける。
「このおれに心を開いてくれる女性がいるとは思えない」
「君はさぞかしもてるはずだろ、僕なんかとは違って」
「おれは女の子なんてこの家には入れたくないよ。やることをやるとき以外は」なおも威勢のいい言葉が続く。「それに今日は飲みすぎたんじゃない。飲み合わせをちょっとばかり変えてみただけだ。君がいなくなってもべつにおれは平気だし、それに」そう言いかけ、いよいよ気分の悪さがピークに達したユージーンがおえっと吐き気を催す。
「おい君、まさか……」一分後の世界に起こることをユージーンが目で告げる。「ちょっと待て、ここではやるなよ。僕に掴まって」ユージーンはヴィンセントの肩を掴み、言われたとおりすんなり彼にしがみつく。ヴィンセントは相手の両脚を下から片腕で抱え、もう片腕を腰に回して、決して軽々しくというわけではない動きでユージーンを持ち上げる。そのまま彼を車椅子に乗せてあげようとしたが、ヴィンセントの首に回された腕の力が思いのほか強く離してくれそうにないので、ヴィンセントは観念してそのまま彼を浴室まで運んでいった。ユージーンからは、呼気の酒臭さと同時に彼がいつもつけているコロンの香りがわずかにした。
浴室に着くなり、ユージーンが便器に向かって吐き始める。間一髪だった。ヴィンセントは背中をさすってあげる。「頼むから、僕がいなくなった後にアルコール問題で破滅しないでくれよ」返事もできずに吐き続けるユージーン。胃の内容物をすべて戻しきり、その晩の食事が無に帰したところで、嘔吐後のつらそうな表情と充血した目でユージーンがヴィンセントを見る。吐瀉物に目を落とし、目で確認を入れるユージーンに対しヴィンセントは呆れた顔を返す。そんなものに利用価値がないことはいうまでもないだろ、ばかなことを言うな、という表情を浮かべながらも、ヴィンセントはユージーンの内心の動揺を感じ取っていた。
嘔吐直後のユージーンの目は半ばうつろだったが、ヴィンセントの顔を正面からとらえる、心に訴えるまなざしだった。額を寄せて、彼らふたりがいつまでも言葉にできない話題について、議論を再開する。
〈君は上に行ったらたぶん生きて戻っては来られないだろうね。誰よりも君自身がそうと知りながら。それでも、ヴィンセント、君は行くんだろうね。もし……おれがもし行くなって言ったら、君は地球にいてくれる?〉
〈それはできないよ。僕が夢を諦められないのは君だってよくわかってるはずだろ〉
〈うん、わかってる。でもおれはただ君がいなくなったあとに一人でここに残されるのは嫌なんだ〉
〈ジーン、頼むから。はじめにそう約束したじゃないか〉
〈うん……そうだな〉
二人は一言も声を発さなかったが、そんなことを話した。日々共有している体液や血が、互いの思考を媒介するかのように、双方の目を通して相手の思考が流れこんでくるみたいだった。
ウォッカのように透明な涙が一粒、ユージーンの右目からこぼれた。嘔吐の苦しみによって反射的に流されたものか、あるいは彼が“泣いている”のかヴィンセントにはわからなかった。ひょっとすると本人ですら涙が流れていることにきづいていないのかもしれなかったが。しかしユージーンは、酩酊したときでさえも自身の本当の弱みを人には――ヴィンセントにも――決して見せたことはない。ましてや涙を流しているところなんて誰にもみせないだろう。生まれたときから完璧さの海の中をすいすい泳ぐのはなんでもないことだったのだ。でも、とヴィンセントは思う。それは彼が目覚めているあいだの話だ。
数週間前の夜遅く、ヴィンセントが帰宅すると、寝室の方から悪夢にうなされるユージーンのうめき声が聞こえた。音を立てないように覗いてみると、彼の横顔に涙が流れているのが見えた。次の日、朝食を二人で食べる頃までには、相手の退屈そうな表情からは昨夜の涙の理由はもはやこれっぽっちもうかがいしれなくなっていたが、横顔に沿って流れるあの涙の筋は、普段のユージーンの苛烈な言動の裏側を支えるはかりしれない悲しみを照らし出す光のようだった。そしてそれは、見た者を内心からひどく動揺させるのに十分だった。いまのヴィンセントには何も見ていない風を装うことしかできないとはいえ。その頃からだ。ユージーンを残して地上を去ることが彼の心に良心の呵責を生むようになったのは。
「さっきのガールフレンドの話だけど」ユージーンが口周りを手で拭いながら話し始める。それからさりげない手の動きで右目の周りを拭う。
「考えなおしてくれた?」
「いや、おれにはたしかにガールフレンドはいないが……何かと世話を焼いてくれる親友――まあボーイフレンドといってもいいが、それならちゃんといる。君の心配には及ばないよ」
「一応聞くけど僕じゃないだろうね」
「まさか。そんなナルシシスティックな趣味はない」
「いつか会わせてくれると信じてるよ」
「いいとも。でも、地上のどこを探しても見つからないよ。そいつは。まあ当分のあいだはな」
ヴィンセントはユージーンの両眼に映った像を見つめる。そこには昔の自分とよく似た見覚えのある人物がいた。ふたりは互いに笑顔を向ける。
ユージーンを寝室に連れ戻すため、ヴィンセントは苦労の様子をわずかに表情ににじませながら、彼の体を持ち上げ、抱えて歩いていった。