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ガタカ二次創作小説:お願いだから「イエス」と言って

ガタカ二次創作小説の第三弾です。ヴィンユにめちゃくちゃハマった2021年でした。2022年もヴィンユで始まることになりそうです。

ヴィンユがもし結婚したら…というwhat-ifものです。もちろん内容はBLです~。

抵抗のない方のみ,「続きを読む」またはスクロールからどうぞ御覧ください。

 

 

 

 

 

 

お願いだから「イエス」と言って - please just say yes

 

 ここに来る前からヴィンセントは自分がこれから危ない橋を渡ることはわかっていた。土曜日の朝に突然開催された懇親会、出入り口をふさぐ不自然な数の警備員、ガタカの施設内でありながらあたかも大統領選を前にした政治家の資金集めパーティーかと見紛うほどの種類と数が用意された飲み物……。これらは全て抜き打ちの薬物検査が裏で行われていることを示す状況証拠だった。こうした懇親会が出し抜けに催される理由は一つしかない。ガタカ職員の中からタイタン任務に向かう人選が最終選考段階に入っているのだ。この状況を無傷で切り抜けるには一秒たりとも気が抜けないぞ、とヴィンセントは自分に釘を刺す。長年の夢である宇宙行きのチャンスが目前に迫っているのだ。このチャンスをふいにする理由はない。会場にはガタカにおける厳しい競争を勝ち抜いたライバルたち――その中でも上澄の、特に業績めざましい将来有望な限られたメンバーが――ヴィンセントと同じように緊張していないふり、、、、、をし、一瞬の警戒も怠ることなく、会場で供される軽食を片手に(表面上は)和やかに談笑していた。そこには同僚の中でもひときわ目立つ美人――アイリーン・カッシーニの姿もあり、一度も会話を交わしたことはなかったが、彼女はすれ違いざまに目が合うと、敵の存在を確認したように冷たく微笑み、グラスを手に局長がいる方へ歩いて行った。

 生き馬の目を抜く連中ぞろいの同僚たちを横目に、ヴィンセントは可能な限りの自然さで、会場の食事には手をつけないようにしていた。とはいえ飲み物を避け続けることはあまりにも不自然。そこであらかじめ今朝にユージーンから受け取った唾液サンプルを指先の“包み”に忍ばせ、指先でグラスに触れてから、口をつけるふりをする。それほど細心の注意を払おうとも、何十人が縦横無尽に歩き回る会場には不確定要素があまりにも多く、いつ何時、わずかな不注意やいっときの判断ミスにより自ら進んでこの場にいないはずの人物のDNAサンプルを差し出してしまうともしれない。気を落ち着けるわずかな隙さえもなかった。

 会場の奥にはタイタン任務を率いるミッション・ディレクターである次期副局長ギンズバーグ氏の姿があった。彼は、会場の奥から鋭い裸眼視力でヴィンセントことジェローム・モローの姿を認めるなり、それまで話し込んでいた取り巻きたちに断りをいれ、人ごみをよりわけ、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。お得意のフレンドリーな表情を浮かべているが、この場にいる誰よりも目端が利くガタカ管理職にふさわしい有能な人物である。ときには嫌みたらしいほどに抜け目がなく、職務のあらゆる局面において寸分の計算ミスも許さない完璧主義者だ。

「ジェローム・モロー君。よく来てくれた。楽しんでいるか?」

「ええ、もちろんです。副局長殿。ご招待に感謝します」

「まだ副局長“補”だよ。来年までは」

「ああ、そうでしたね。それにしても今日は大変な賑わいようですね。まるでタイタン行きを前に地上最後のお祭り騒ぎといった趣だ」

「君も祭りに加わり存分に楽しむといい。――さてさて、君がまとめたタイタンの調査計画を読ませてもらったよ。素晴らしい内容だった」

 ギンズバーグはそういうとヴィンセントの肩に手を回し、秘密の話をもちかけるように部屋の隅に向かって歩き出す。

「私としてもタイタン任務の1日も早い実現を願っている。あそこに埋まっている水素資源を回収できればこの先200年は我が国の経済基盤は安泰だろう。政府が資金を大盤振る舞いしてくれるうちに事を実現させなくてはな。そう思わないか? とはいえ、全ての問題が解決したわけじゃない。まだまだ悩みの種は尽きないのだ」

 ギンズバーグはそういうと手に持ってきたシャンパングラスをヴィンセントに「朝の10時だ。アルコールフリーだよ」と言って差し出してくる。ヴィンセントは一瞬ためらったのち、上司の“好意”を断る理由が見つからなかったので――断れば不自然きわまりない――指先を飲み口に押しつけ、自身の唾液が混ざらないように注意しながらその場で飲み干した。その様子を見て気を良くしたのかギンズバーグの長話がさらに続く。

「ここだけの話だが、私はいまの局長殿が支持している航行計画にはいまだに賛同できなくてね……土星重力を利用してスイングバイを行いタイタン軌道へ突入するなど、馬鹿げているとは思わないか? あまりにもリスクが大きい。我々の計算に0.0001%でも誤差があればたちまち船は土星の虜になってしまう。70年に一度のチャンスをふいにしたくない局長殿はこの件について聞く耳をもたんがね。私はタイタン任務の責任者としてもくろみ通りうまく行く確信がほしいだけなんだよ。頭脳で人類の頂点に立つガタカ職員の我々が取りうる最善策がそれ以外にないということがはたしてあり得ると思うか? この問題が解決されるまで打ち上げは延期すべきだ。何しろ任務に向かうのは“我々”なのだからな。局長殿ではなく。リスクは最小限に留めたいのだ」ギンズバーグは“我々”と言ったとき、わざとヴィンセントに視線を投げた。「今朝も局長の説得を試みたが、怒鳴り返されたよ。君には信じられないだろうが……。ところで、君に頼んだ例の軌道計算はどうなってる?」

「二、三日後にはお渡しできますよ。計算式の最終確認に少しお時間を頂きたいのです」

「素晴らしい!ビューティフル まったく素晴らしいよ、君」。ギンズバーグはヴィンセントの手から空になったグラスをサービス精神旺盛といった表情で取り上げる。「主席研究員の君には大きな期待を寄せているんだよ、モロー君。午後に私のオフィスまで来てくれ。任務のことで話がある。休日勤務手当は当然つくぞ」

 ギンズバーグは言いたいことを言い終えるとすぐに立ち去っていった。ヴィンセントはその後ろ姿をその手に回収されていったグラスとともに苦々しく見つめる。これはひょっとするとまずいことになったかもしれない……。

 

 

 

 長い一日だった。ささやかな悪事を共謀するパートナーとの共同生活場こと我が家に帰り着く頃にはあたりはすっかり夕闇に染まり、月が東の空から姿を見せていた。ヴィンセントは照明の数が不足しているロフト部屋から階下へ、螺旋階段の段を踏み外さないように慎重に降りていく。階段わきに置かれたスチールのリクライニングチェアを引き寄せ、緊張の糸が一瞬にして切れたようにそこへ全体重をあずける。その物音を聞きつけたユージーンが書斎(と彼が呼ぶ本が乱雑に積まれているだけのエリア)から読みかけの本を片手に顔をのぞかせる。

「よう、相棒。今日はずいぶん残業が長引いたみたいだな。夕食はちゃんと考えがあるんだろうな? 今日の夕食担当は君だってこと、忘れていないだろうな。おれはもう待ちくたびれたぞ」

ジーン。僕と結婚してくれないか?」。2秒の沈黙のあと、奥から、車椅子に乗ったユージーンが何か聞き間違いをしたかとエイリアンでも見るような不審な顔つきでおずおずと近づいてくる。

「いま何か言った?」

「ああ、言ったよ。僕と結婚してくれないかってね」。弁解するように両腕を広げ、およそロマンチックとは程遠い深刻な顔つきでヴィンセントはくり返す。

 ユージーンはめずらしく動揺を隠せない様子で目の横を押さえ、真意を確かめようと目を大きく見開き、無言で「おまえは何を言ってるんだ」と大声で発音するときの口の形を作る。そのまま二の句を継げずにいるユージーンに向かってヴィンセントが続ける。

「ちょっとまずいことになったんだ。前に言っただろ、あのミッション・ディレクター。彼にうっかり僕の唾液サンプルを……つまり、僕自身のものが渡ったらしい。ああ、しくじってしまったんだよ」ヴィンセントは狼狽えた声で、しきりに目の周囲をこすり、ユージーンにとっては要領を得ない話をお構いなしに続ける。この世の終わりとでもいう表情で天を仰ぎ、両手で目の下を覆う。

「どうしてそれが結婚につながる?」

「言ったろ、今朝の懇親会は初めから危険なにおいがしていたんだ。あれは……任務に適する人員を探り当てる最終面接の一形態なんだ。そんなことはみんな知っていたし、僕は完璧に演じきったが。……それなのに午後になってから何をどうしてしまったのか僕が手にしたグラスから、掃除係としての僕のDNAと君の……つまりジェローム・モローのDNAが同時に検出されてしまったらしい」ヴィンセントがもうおしまいだとばかりに頭を抱える。

「オー・マイ・ゴッド」。非難の言葉がユージーンの口から棒読みで発せられる。

「それで僕は上司に呼びだされて……同時に唾液が検出されたのは、掃除係のヴィンセントと君が、つまりジェローム・モローとヴィンセント・フリーマンが――“結婚”しているからだとでっち上げ、その事実を盾に上司に向かって説明せざるを得なかった……。僕の芝居は上出来だった。言ってる意味、わかるだろ?」

「いや――いや、全然わからないな」ユージーンは早くもあきれきったように目をぐるりと回している。信じられない思いもあらわに眉をつりあげ小馬鹿にした表情をする――いま聞かされた話ができの悪いジョークだとでも言いたげに。ヴィンセントが思いつめた顔で立ち上がる。

「だって、他に何を言えばいいんだ? 真剣な表情でこう訴えればいいのか? “僕の正体はヴィンセント・フリーマンで神の子たるアンダークラスの出身です。数年前にガタカの入社試験を受けましたが、遺伝子検査であっさりダメでした。でも夢を諦めきれなかった僕は仕方なく掃除係となり、犯罪に手を染め、他人になりすましてガタカに入りこみました。そんな僕ですが勤務成績は自他ともに優秀と認められているはずですから、タイタンへ連れて行ってください”とでも?! 誰がそんなたわごとに耳を貸すと思う? 確実に夢がおじゃんだ! できるわけがないだろ、できっこないんだ! それよりも、僕らが実は結婚していて、愛し合っていて、朝に交わした“お熱いキス”のせいで2種類の唾液がグラスから検出されてしまったと主張する方がよっぽど現実味があって尤もらしいと、そう思わないか?」

 工具類が散乱した工作机のまわりを忙しなく歩きながら早口でヴィンセントがまくし立てる。自分に言い聞かせるみたいに。事情をようやくのみこめたユージーンは――ヴィンセントの独創性はもとより目的のために手段を選ばない様子になかば感心しつつ――首を振りながら大きなため息をつく。

「つまり君はずいぶん間の抜けたミスを犯したってわけだ。おれたちが結婚しているなんて馬鹿げた話をよくもとっさにでっちあげたもんだな。とっさにでっちあげたにしては……ふふっ。君もなかなか味な真似やるじゃないか。ま、君が思うほど悪くはないと思うぞ。つまり、結婚のことだが。本当のことを話したって君がガタカに入るのにどんな手段を使ったのか、あのブローカーのことやこのおれの存在を含め、さらに説明に窮しただろうよ。そもそもが信じがたい話なんだ。こうなったからにはことの成り行きを見てみようじゃないか。君の上司がその話を真に受けるとは思えないけどな。ひどくめざといんだろ、そいつ」

「そりゃあ、人一倍」

「口止めはしたんだろうな」

「ああ……もちろん」それは嘘だった。ユージーンはその嘘を即座に見抜き、三秒以上ヴィンセントを睨みつける。

 ヴィンセントが再度目の下をこする。「で、夕食は何が食べたい? ダーリン?」

「いつもの店――」とユージーンはいいかけ、すぐに語気を強める。「その呼び方はやめろ。いやらしいぞ」

「結婚したわけだし少しくらいいやらしいのは許容範囲だと思ってたよ」

「君の作り話を受け入れたからといって結婚に対してイエスと言った覚えはないぞ。こんなことになって、ボトルワイン2本に最上級クラスのフルコース料理でもごちそうしてくれなけりゃつり合いが取れないってこと、わかってるんだろうな。それから念のために言っとくが、おれは君と“朝にお熱いキス”なんかしない」

「ああ、補足ありがとう。とはいえ僕は手段を選んでいられないのでね。話に信用性をもたせるために一度試してみたっていいんだよ。どう思う?」ヴィンセントが強気に切り返す。

「それは絶対に、断じて、あり得ない」

「残念だな。じゃ、今日のところは僕らの新婚――それがなんであれ――を祝って乾杯するとしよう」

 

 ミシェールの店は今日も混んでいる。夜の9時半。ここへ来るのは今月に入ってから5度目だ。当日夜の予約では当然コースは取ることができなかったヴィンセントは苦労の末、ユージーンをその日のメニューで渋々妥協させることに成功した。人混みの隙間を縫ってヴィンセントはユージーンの車椅子を押し、ともに席につく。この店はユージーンの大のお気に入り。店主特製のビーフ・ストロガノフと赤ワインのマリアージュにいつまで経っても飽きがこないらしい。着席するなり、事前に注文をきいていたワイン係がふたり客のグラスに赤ワインを注ぐ。

 料理が運ばれてくるまでのあいだ、ふたりはいつものように熟年夫婦といった趣で無言のまま、指先にタバコをはさみ、弦楽器が奏でる生演奏を聴きながらそれぞれの考えを巡らせていた。ヴィンセントはといえば週明けに上司から例の件で再び呼び出しを受けることは明白だったので、そのときにするもっともらしい弁明を頭のなかで磨きをかけるのに忙しかった。そこへ、ユージーンから思わぬ質問が投げられた。

「なあヴィンス。君は愛のある幸せな結婚ってものを見たことがあるか?」。ヴィンセントはテーブルに落としていた視線を向かい席のユージーンへ移し、彼が2本目のタバコに火をつけ終わるのを見届けてから、ジョークを受け流すときの顔で答える。

「結婚の話を本気で考えてくれたのか?」

「いいから答えろ」

「どうかな。僕の両親は――幼い頃から僕を授かったのは愛していたからだとよく言っていた。少なくとも僕を産むと決めた時点では世界で一番幸せだったと。どうして父さんと母さんが、愛しているなら僕の運命を神様ではなく地元の遺伝子専門医に委ねなかったのか、僕には見当もつかないけど――愛で授かった子供は幸せになれると信じる古風な両親なのさ。それに、父さんと母さんは本当に仲が良かった……幸せだとよく口にしていたよ。――弟が生まれてからもね」。ヴィンセントが思い出話を愛おしそうに述懐する。ユージーンはその様子をじっと見ていたが、少し黙り込んでからそっぽを向いた。

「ふうん。愛によって生まれた神の子か――わからないな。君のような不適正者を産みだすだけでしかないのに、後先考えずにどうしてそんなものに頼って子供を作ろうとするのか。おれには想像もできない。しようとも思わないが」その言葉には必要最小限の皮肉が混ぜこんであった。ヴィンセントは「僕もまさにそれを知りたいね」と慢性病を抱える者がにじませる諦念と同じトーンでつぶやく。それっきりユージーンはその話題に対する興味を失ったようだった。

 料理が運ばれてくる。今宵のディナーはおなじみ店主特製のビーフストロガノフ。牛テンダーロイン(腰肉)の赤ワイン仕込みに、サワーソース、白トリュフスライス添え。

 

 

 とりたてて不思議なことではないが、その日の夜遅く、食事を終えて帰宅する頃にはふたりともしっかり全身に酔いが回っていた。最新の車種に搭載された自動運転モードでなければとても無事に家に帰り着けるはずはなかった。特にユージーンは、一人でボトルをまるまる1本空け、泥酔に近かった。ヴィンセントは、相棒が吐き気を催さないように慎重に車椅子を部屋まで押していき、極力相手の体を揺らさないようにして、ユージーンをベッドに寝かせようとする。しかしヴィンセントがユージーンの体を持ち上げようとしたとき、酔いが回って平衡感覚に支障をきたしていたのに加え、両脚がおもりになっているユージーンの身動きでいきなりバランスを崩し、ふたりとも硬い床の上に転がってしまう。

「いまのわざとやったんだろ」。ヴィンセントは床に打ちつけた肘のあたりをさすりながら、上体を起こし、床の上に転がったままのユージーンをみる。

「まさか」

「3つ数えるから体を持ち上げて。じゃあいくよ。3、2、1……」早く眠りにつきたいヴィンセントの願いをよそにユージーンは微動だにしない。ヴィンセントが前かがみになりユージーンの後頭部に手を回し、持ち上げようとしたそのとき、ユージーンの右手がヴィンセントのこめかみに触れた。

「なあ、ヴィンセント。教えてくれ。幸せな結婚には何があるんだ? 君はそれを見て育ってきたんじゃないか?」

「さっきの幸せな結婚の話の続きか? それともおとぎ話のこと?」ヴィンセントはこめかみに触れる手を床の上に押し戻す。

「その両方といったところかな。次に愛されるのはいつになるかわからないからな。結婚相手がいるうちに楽しんでおこうと思ってさ。君とは永遠に法律婚はできないにしろ」

 ヴィンセントは自分がからかわれているものだと思っていたので、ユージーンの表情が真剣な様子であるのを意外に思いながら見ていた。

「――さっき君の話を聞いておれは思ったんだ。君はたぶん家族から愛されてきたのだろうと。おれは自分が親から愛されてると思ったことはただの一度もない。おとぎ話みたいなもんだよ。――おれの家族を例に挙げるとすれば、みんな外面は非の打ちどころがなかった。中の様子はひどいもんだったがね。それくらいはわかる――おれは父母がどちらも幸せとか愛について話しているところは一度も見たことはなかった。だから君がいう地上のどこかにあるらしい幸せな家庭がどんなものかおれには想像もつかないな。両親は、夜になるといつも口論していて、おれを作ると――そう決めた連中が夜に興行する舞台演劇みたいなもんさ」

「君たち適正者の家庭が不仲とは信じられないな。何もかも完璧なはずだろ」ユージーンの方に起き上がる気がないと見て、ヴィンセントは再び仰向けになる。

「べつに不仲というわけじゃない。おれがいいたいのは、不仲でなくとも不幸な家庭はあるということだ。特に結婚でもたらされた子供……彼ら好みのお人形が望んだとおりの結果をもたらさなかった場合には――」酔いのためかいつも以上に舌が回るユージーンをヴィンセントは戸惑い半分に見つめていた。やがてユージーンが「いや、うん。この話はやめておこう」と自分に言い聞かせるようにして会話を一方的に打ち切るまで、ヴィンセントは彼の話を静かに聞いていた。ユージーンが両親の関係を指して“不仲ではない”と言ったとき、ヴィンセントは自己の辞書にある言葉の定義といささか齟齬があると思った。しかし口を挟むのはよしておいた。

「とにかく、少なくともおれは君との結婚生活――なんでも好きに呼べばいいが――をうまくやりたいと思ってる。君が夢のためになんでもするように、こちらとて生活の維持に手段を選んでいられないのは同じだからな」

 ヴィンセントは相棒の質問に答える。

「幸せな結婚に必要なものは――(1)温かい朝食、(2)きれいなシーツ、(3)サンバを踊ること、そしてなにより(4)おやすみのキス。これくらいかな」。答えに特に根拠はなく、とりとめもなく頭に思いついた順だった。

 10秒以上の間があって、ユージーンが口を開く。

「――サンバは少し前に君とミシェールの店でサンバナイトに出たし、いまのところ朝食とシーツにはこと欠かない――ということは残るはおやすみのキスか。それくらいならできそうだとは思わないか?」。冷たい床にとうとう嫌気がさし、ユージーンは自分を持ち上げろとヴィンセントに催促する。ヴィンセントは両腕を相手の首と腰に回し、成人男性の重量に耐えて持ち上げ、引きずり上げるようにユージーンをベッドの上に寝かせてあげる。それから、相棒のすぐ横に腰を下ろし、軽く笑みを作って相手の目の奥を覗きこみ、いま耳にした言葉が本心からのものか確かめようとした。

「君も僕も間違いなく酔ってる。翌日には後悔するようなことはやめたほうがお互い身のためだろうね。とはいえ、念のためプロポーズの返事はもらっておきたいところだな……」ここは儀礼的にことを進める必要があるなと彼は思った。

ジーン、僕と結婚してくれる?」

「イエス――いまのところは。朝になれば気が変わってるかもしれないが」

 予想しなかった展開に驚きを隠そうと思っても隠せないとの思いもあらわに、ヴィンセントはエイリアンを見たかのような表情をする。そこへユージーンがおやすみのキスをしろと二人の顔の間を指先で往復させる。ヴィンセントは前屈みになり、おそるおそるといった動きでユージーンの右頬へ顔を寄せるが、相手はその動きを指で制止する。唇にしろとのことらしい。ヴィンセントは無視してユージーンの右頬へキスをし、ちゅっと唇を押しあてる音がする。それは越えられない一線のように思われたのだ。今度はユージーンが返礼をしようとヴィンセントに顔を近づける。惑星の軌道計算を仕事にしているヴィンセントがその軌道が自分の唇に向かっているのを見抜くにはコンマ1秒もかからなかった。相手がことに及ぶ前に、自分の左頬を指す。しかしユージーンはそれを無視して目を閉じ、ヴィンセントの唇の縁に自分の唇で触れた。3秒後、ユージーンは顔を離す。

「“結婚したわけだし少しくらいいやらしいのは許容範囲だと思ってたよ”」。自身の発言を予想もしなかったタイミングで引用され、ヴィンセントは思わず笑みを堪えきれない。あきれたなとばかりにかぶりをふる。

「それにキスくらい慣れておけ。新婚初夜だぞ(It's our wedding night!)。君は月曜の朝にもなれば、人が変わったように取り乱して即席でDNAを2種類用意できるようにおれに頼むに違いないからな」

 ふたりはその週末をめずらしく一度も家事の担当をめぐって口論することなく過ごした。

 

 

 

 月曜の朝。通勤に向かう車の中でヴィンセントは土曜日に上司のギンズバーグと交わしたやりとりを反芻し、万全の論陣態勢を整えるための最終段階に入っていた。

 土曜の午後、ギンズバーグはヴィンセントが退室しようとするところにこんな追い討ちをかけてきた。

「君は実に興味深い男だな、モロー君。調査計画書の緻密さは職員随一、勤務成績優秀、軌道計算の正確さでは職員トップ。その君が、プライベートでは掃除係と結婚か。私がいま耳にしている話にひとつも嘘はないと言いたいんだな?」

「ええ。一言一句正しいと断言できますよ」

「ミスター・モロー。いや、ミセス・モローか? 自分が何を言っているかわかっているのか?」

「わかっていますよ。それから、ミスターの方です」

「月曜、またここで会おう。君に驚くようなニュースを聞かせてあげられるかもしれないからな」

 ヴィンセントは上司の疑念に対しギリギリ耐えられる程度には完璧な論陣を整えていたが、結局それっきりギンズバーグと二度と会うことはなかった。職場に到着すると、いつになく騒々しい。大勢の職員が廊下を右往左往し、執務室には人だかりができていて、そこを覗いてみるとその床にはギンズバーグ氏が……頭をひどく殴打され血を流した状態で息絶えていた。ヴィンセントは、この急な展開に表面では無表情を保っていられたが、やや心が動転して目の下をこする。その時にまつ毛が払い落とされたことにも気づかず。

 こうして、ふたりの週末だけの結婚生活はあっけなく終わりを迎えた。それなりに結婚生活を楽しんでいた様子の相棒に、結婚の二日後に離婚の話をするのは気が進まなかったが、それ以上の苦難が待っていることをこのときの彼はまだ知らなかった。