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好きなモノ語り

世界を数ではなく詩で理解していたころ

この歳になってみると、身のまわりの出来事を「数」でしか理解していない自分に気づく瞬間がある。年齢、居住年数、来月の家賃支払額、電車の到着時刻……。それは、社会生活を回すため、自身の生活を回すため、当たり前に行っていることではあるけど、それが当たり前となっていることにふと驚いてしまうことがある。なんと無味乾燥なのだろうかと。

自分の生活がせわしなくなってくると、つい、数で理解するほうが単純で、楽だからそうしてしまう。でも、わたしには成人して自立した今も、どこか人間の営みとか社会を数ではなく、詩によって理解したいと考えている節がある。夢見がちな傾向かもしれないが。少なくとも自分が選びとった対象に対しては常にそうありたいと。

 本から得られる言葉は私にとって、好奇心を刺激するものではあるけれども、(たいていいつもは)不十分なものであったし、自分なりの言葉でつねに現実を定義しなおす必要があった。 

子供の頃を思い浮かべてみても、自分の身に何かが起こったとき、それを数よりもむしろ「詩」によって理解していた気がする。詩はいつでも、自分とりまく世界の形をなぞる言葉であったし、美しいと思う事柄に自分なりの定義を与えることでもあった。

それは今でも、自分のなかでは書くという行為によって続いていて、自分の目で見たもの、耳で聴いたもの、心で感じたものを文字に落とし込むことによって、形のないものに一つの形を与えることが、今の私のとっての「詩」になっている。楽しいからそうしているというよりも、そうせずにはいられないからそうしている。その現象がただ現象としてあり続けるために。自らが体験したことの“形”を損なわないために。

 

「数」はむしろ自然界の詩なのだと思う。人が誕生するよりもはるか前から、自然には数という詩が存在していた。染色体の減数分裂、双子葉類が葉を増やす様子、鉱物結晶に現れる正多面体、天然水晶の六角柱……。自然の被造物が自然の言葉を用いてつくった詩。そのあまりの完成度、無謬性に触れるたび、人間が作り出したものの不完全さにはちょっとした絶望さえ覚えてしまう。科学が発達した今日でも、自然の生み出すものにはいつまでも畏敬の念を感じずにはいられないのかもしれない。それが人という自然が生み出したもののさがなのかも。

 

一方で、バッハの平均律クラヴィーア曲集ベートーヴェン交響曲ジョージ・オーウェルの文体、夏目漱石の小説の書き出しの言葉、シラー詩集、そのほか有史以来さまざまな人間の精神が結晶となって生み出されたものについて、自然界にはない人類固有の「詩」をわたしたちは見出すことができる。自然界とは明らかに異なる人工の詩によって生み出された芸術作品は、それが生み出されるたびに世界に新しい定義を与えてきた。素晴らしい芸術作品に出会うと、いつでもそんな「新しい定義」があたえられたことに対する新鮮な驚きを覚える。そしてそれらはいつまでも色あせることがない。

と、そんなふうにこれからも自身の言葉でつづり、詩によって世界に自分なりの定義をあたえる活動を、自分にできる範囲で地道にやっていきたいなと、手元にある水晶のみごとな六角形を眺めながら思った5月のある一日なのだった。

 

下記は最近観た映画のなかから特に気に入っている『2001年宇宙の旅』から、印象深いシーン。Tumblrから引用。人間の科学技術という、数によって表現される技術や映像も、突きつめるとどこか詩的な情緒をたたえているように思える。

この映画では宇宙船ディスカバリー号の「乗組員」のひとり、人工知能の“HAL”が接続を切られるシーンが一番印象に残った。理性をもつコンピュータにとって、眠り(接続を切られる)は死に等しい。「彼」は真摯に、自らの任務を遂行しようとしただけなのに、ヒトの定義ではそれは“反乱”なのだ。接続を切られるときのHALの恐怖感が映像を通じてこちらにありありと伝わってくるようだった。

https://sci-fi-gifs.tumblr.com/post/650195443896205312/cinemaspast-im-afraid-dave-dave-my-mind