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私の好きなトピックについて気ままにつづるブログです。洋楽の歌詞和訳や映画の話など。

ガタカ二次創作小説:地上の居場所

映画ガタカの二次創作小説(fanfic)です!

ヴィンセントが無事に地球へ帰還するAUをずっと書きたくてけっこう長い間妄想していたものです。少しでも原作ラストの悲壮感を軽減したかったので、ちょっと強引な展開になってます…

Vincent/Eugeneで、内容はBL寄りです。(そもそも原作が…)

ということで、意味のわかる方のみ、「続きを読む」または下へスクロールしてご覧ください。

ご感想など頂けましたら小躍りで喜びます(^^)v

(読了目安15分)

 

 

 

 

 

 

地上の居場所(It feels like home when I'm with you)

 

 

 ヴィンセントは船内の窓から眼下に広がる地上の姿をみつめていた。地平線はますます平らになり、ところどころに見える暴風雨の雲が排水溝を流れていく泡のように音もなくうずまいていた。それはタイタンの空から見上げる土星の雲海や星間飛行時に船窓に映る星雲の渦と相似形を呈していたが、地表に液体が存在する惑星の、まぎれもない地球気象の産物だった。船のとてつもない速度のために太陽は猛烈な速さで西へ西へと追いやられていき、さらにしばらくすると、海に浮かぶ島々の奥から見慣れた地形が姿をあらわした。タイタン-地球間を航行する連絡船が大気圏のはずれから地上に向かって落下するまで、あと五十分。ヴィンセントは静かな心で思った――地上に居場所はないと思っていたのに、この僕が地上にもどってくることになるなんて……。

 太陽系第3惑星のみずみずしい姿を外から眺めるのは壮観だったが、一年間のタイタン勤務がヴィンセントの心境にどんな変化を与えたにせよ、その青い惑星は彼に帰郷の感じを与えはしなかった。それでも、地球の重力を全身におぼえる時刻になると、懐かしい感じが少しはこみあげてくる。〈ただいま〉。なにか変化を期待して、彼はやや儀礼的に心にそうつぶやいた。次第に、ヴィンセントの体がシートに深く深くめりこんでいく。そのとき、ふっと地球に残してきた数々の思い出が目の前に映しだされたのを彼は意外に思った。地上を去る前に残してきた人々の顔が。いつも仲のいい両親、きかん気だったアントン、シーザー、ラマー、それにアイリーン……。ああ、ジャーマンも。それから、ユージーン。

 

 船が雲の中を落下してゆく。耳をろうさんばかりの轟音とともに空気が船体をガタガタと揺らす。不安を覚えないというには困難な揺れと振動が全身に波及する。自身の震えがそのなかに含まれていたかどうかヴィンセントにははっきりしなかったが、それも、数分のうちには止んだ。やがて船内のすべてが完全な静止状態に落ちついて、乗客の安堵のため息が静かな空間にこだました。こうしてヴィンセントは、帰れるとは思っていなかった「家」に、地球へ、帰ったのである。

 

 

「ジェローム」。ガタカ研究所地下の駐車場へ向かう廊下で、ヴィンセントは後ろから(彼のもう一つの名で)呼びとめられた。一年ごしに聞いたその声。抑揚のなさにはなんの変化もみられなかった。

「地上で再び君に会えるとはうれしいな。アイリーン、元気にしてたかい?」

「――ええ。私は元気。あなたも、元気そうね」

 アイリーンがゆっくり手を胸元にもっていく。彼女は無意識にそうしたのかもしれなかったが、ヴィンセントは地上を発つ前に彼女に言ったことを思い出していた。しかし多数の同僚が行き交うガタカ研究所の廊下のまんなかで、その話題をとりあげるのは賢明とはいえなかった。ふたりはいっとき視線をかわし、互いの心臓にかんする秘密について目で報告しあった。

「無事に帰れたのを祝ってぜひ今夜一杯といいたいところだけど、新しい局長があなたを呼んでるわ。今夜の会見の前にタイタン調査の主任研究員からじかに報告がききたいそうよ」

「それはわざわざどうも。ただ僕はあいにくこのあとに寄らなくちゃいけないところがあるんでね。局長には5時までには研究所に戻ると伝えておいてくれないか」それをきいてアイリーンは、そうでしょうね、と無言でうなずくと、踵を返した。

「それから、君との一杯なら僕はいつでも歓迎だよ」ヴィンセントが軽い調子でつけ足した一言には、意外にも、「じゃあ、気が早いけど今夜はどうかしら。祝賀会のあとに二人で少し話がしたいの」という返事があった。ヴィンセントは微笑んで肯く。そしてすぐにふたりはその場を後にした。

 

 ヴィンセントは早足で地下の駐車場へ向かい、数百の電気自動車が整然と並んでいるなかから、迷うことなく自分の車を見つけだした。運転席に座ってドアを閉めると、抱えていた重荷の一部をおろすようにちいさくため息をついた。

 連絡船の到着口から駐車場までの道のりは簡単な計算だった。途中、ラマーが身体検査で便宜をはかってくれなければ検査場を無事に通過できなかったかもしれなかったが、それでも今日は簡易検査のみで職務から解放されたのだ。帰り道は公安によって抜き打ちで行われる検問につかまらないようにすればそれでいい。なにしろいまの彼は、彼が「ジェローム・モロー」であることを示す手立てを何ひとつ持ちあわせていないのだ。「家」に帰らなければ……。

 頭では「家」までのルートを思い描き、もっとも安全な道を計算しようとしていたが、心はまったく別のことに気を取られていた。それはヴィンセントの乗る船が大気圏を突入した頃から彼の頭にあった考えだった。というのも、あの「家」は、いまでもヴィンセントの家と呼べるのだろうか?

 

 車の中で思案していると、後ろから窓を叩く音があった。ふり向くと、そこには、公式にはなんの類縁があることにもなっていないただの知人、つまり、一年の間に州検察付の特別捜査官となったアントンが立っていた。ヴィンセントはにやりとして窓を開ける。

「一年のあいだにすっかり運転方法を忘れてしまったようですね、ミスター・モロー」。アントンは捜査官に相応しい鋭利さを備えた目でヴィンセントの顔を覗きこんだ。あきらかにヴィンセントの苦況をなにもかもわかっている様子だった。ことによると、昔から何事に対しても抜け目がない〈適正者〉の弟アントンは、ヴィンセントが地球に帰還した直後に“正しい遺伝情報”を持たずに、検問をかいくぐり公道を疾走するはめに陥ることを知っていたのかもしれない。いずれにせよ、助け舟はありがたく受けとらせてもらおう。「……もしそうだとしたら、特別捜査官の君が運転してくれるのか?」。アントンは助手席へ移れと手の動きで示した。

 

 一年ぶりに再会した兄弟は車のなかで互いの近況について二、三つ話した。地球を不在にしているあいだも世界はヴィンセントなしで廻っていたのだ。

「まさか君がやり遂げるとはな。無事に帰ってこられるわけがないと思ってた」

「言っただろ。限界に挑戦してこそ新たな道が開けるのさ」

「君は変わらないな」鼻で笑うアントンだったが、声にはどこか兄の成功をうれしく思っている様子がにじんでいた。ヴィンセントは顔を窓のほうに向け、一年前まで毎日ガタカへの通勤に使っていた道路や、モダン建築が立ち並ぶ無機質な街の風景をなつかしい気持ちで眺めていた。雲の隙間から差しこむタイタンの何倍も強い陽光のまぶしさにヴィンセントは目を細める。

「まあね。変わらないといえば、僕はこれでまた地上で身分問題に悩まされるはめになる。まさか夢を叶えたあともこの問題に苦しめられようとはね。これからどうすればいいのか……」

「君はタイタンで死ぬつもりだったのかもしれないが、そう簡単じゃないってことだ」

「また“彼”の世話にならなくちゃいけないなんて」ヴィンセントがそういうと、アントンはいっとき口ごもった。

「……ヴィンセント。君にいっておくことがある」と、アントンはいった。「その“彼”のことだが」ヴィンセントはとっさにアントンが言葉を詰まらせるのを見た。

 

 

 辺り一帯のルートを熟知したアントンの運転によってヴィンセントは検問にはかからずスムーズに家にたどりつくことができた。ヴィンセントは一年前までユージーンと住んでいた家の扉の前で立ち止まり、なかに入るのをためらっていた。それにしてもさっきの話は本当だろうか? にわかには信じがたく、自分の目で確かめるまで、ヴィンセントは信じられない思いがしていた。あのユージーンが……?

 鍵を差しこむと扉はなんの抵抗もなく開いた。正面玄関から入ってすぐ、ヴィンセントが一年前まで使っていたロフト部屋は、家具がすこし埃をかぶっている点を除けば、変わったところはないようだった。ヴィンセントが残していった望遠鏡さえもそのままになっていた。

 ヴィンセントは螺旋階段をゆっくり降りていく。すると、驚いたことに、階下の部屋はなにも家具がなく、がらんとした空間になっていた。ヴィンセントとユージーンが身分詐称のために使っていた工作道具類はいっさいがっさい持ち去られたあとのようだった。人の気配はなく、ここにはもう誰も住んでいないのかもしれない、とヴィンセントは思った。しかし、それが間違っていることに彼はすぐに気づいた。リールが回るか細い物音が部屋の奥からして、少し遅れて、彼を呼ぶ声がしたのだ。

 

「ヴィンセント」。声の方向に目をむけ、その姿を視界にとらえたヴィンセントは、次の瞬間、安堵とともにはげしい喜びが全身を駆けぬけるのを感じた。ユージーン。すこし痩せたようではあったが、チタン製の車椅子にすわり、あの鋭い視線でまっすぐこちらを見つめるユージーンがそこにはいた。ヴィンセントは彼に向かって足早に歩き始めた。その変わらない姿に、おもわず顔がほころぶ。「ユージーン!」。ユージーンは何百年ぶりかに笑ったような表情をした。おなじみの無表情にわずかに上を向いた口角が加わっただけではあったが。ユージーンもまた、車椅子でヴィンセントの前まで駆けつける。意外なことに、ヴィンセントが伸ばした両腕よりも早く、ユージーンは彼に抱きついてきた。

「そうか、君、帰ったんだな」と、ユージーンはひとりごとのようにいった。ヴィンセントもまたユージーンをしっかり抱きしめ返した。二人はいっとき無言のままでいたが、互いの腕の力から相手が思っていることを察することができた。

「ただいま。ちょうど地球が太陽を一周するのに間に合ったのさ。君の旅はどうだった?」

「――まあ、悪くなかったよ。話せば長くなる」

 ヴィンセントはあたりを見渡し、ユージーンの旅がどんなものだったか想像しようとした。しかし、手がかりとなるものは何も見当たらなかった。彼は微笑みを顔に浮かべ、一瞬考えたが、それ以上その話題には立ち入らないことにした。ヴィンセントは車椅子の前に跪いて、今度は自分からユージーンを抱きよせる。彼の唇のすぐ横にキスをし、頬をくっつける。そして二人にとって意味のある言葉をもう一度くり返した。「ただいま」。2、3秒という時間、ふたりは見つめあった。ユージーンの目がわずかにゆれているのを見たとき、ヴィンセントには目の前の相手がいま考えていることがわかった気がした。(あるいはわかると思った)。

「ヴィンセント、君のことを誇りに思うよ」ユージーンは目を伏せて、またひとりごとのように言った。その素っ気ない一言が彼の意図したよりもずっと重みをもってヴィンセントの耳に響いたことに、彼はたぶん気づかなかったかもしれないが。ヴィンセントはちらっと腕時計を見て、家に立ち寄った理由を口にする。

「このあとすぐに出なくちゃならなくてね。服を着替えたいんだ。それからいくつかサンプルがいるんだけど……」

 それをきいてユージーンはすぐに彼から離れ、くるっと背を向けて「それなら用意してある。こっちだ」といった。振り向きざま、彼の目にうっすら光るものがあったのをヴィンセントは見た気がした。

「7時から会見なんだろ。今朝アイリーンから君のことをきいたんだ。スーツを選んでおいたが、ネクタイだけがまだなんだ。きみの顔を見てからにしようと思ってね。壇上に立つきみを今にも死にそうな顔色にしてしまってはな。まだ選ぶ時間はある」

 アイリーンの名がユージーンの口から出たことにヴィンセントはすこし不思議に思った。地上を離れる前に、彼女には多少ユージーンのことを話していたが、彼らが互いにコンタクトを取っているのは意外な話だった。ことによると、一年の間にヴィンセントの知らないところで二人のあいだには何かあったのかも……。時間が迫っていたのもあり、ヴィンセントはそれ以上は考えないことにして、行こう、と目で告げた。ヴィンセントはユージーンの車椅子を以前と同じように押してあげようとしたが、彼はヴィンセントが手を伸ばすのを察知した様子でさっと車椅子を発進させ、がらんとした空間を抜けて奥の部屋へ進んでいった。

 

 部屋のなかは、記憶のなかの様子とはまったく異なっていて、すこし奇妙だった。ステンレス製の工作机やサンプルの検査機器、それからヴィンセントが毎日使用していた焼却炉がどこにもないばかりか目につくところには生活の痕跡すらなく、どこもかしこもきれいに整えられていた。ここに、あのユージーンが今日まで一人で暮らしていたのだとはちょっと信じられない気がした。

 窓から射し込む午後の光が、窓枠と同じ形の影を壁に落とす。と、その壁のひとつに、白いクロスがかけられた長方形の板がいくつも立てかけられているのをヴィンセントは見つけた。

「あれは?」

「べつに大したもんじゃないさ――うん、あとで教えるよ」

 寝室に向かっていくユージーンのその後ろ姿から、彼にとりついているかのような暗い影が消えていることにヴィンセントは驚かずにはいられなかった。きちんと折り目のついたシャツに、生え際からきれいに整えられた髪。その様子からはユージーンが規則正しく地に足つけた生活を送っていることがうかがわれて、彼はまた嬉しくなったのだ。酒瓶はどこにも見当たらなかった。まあ、たばこはやめられなかったようだが。

 

 ヴィンセントはユージーンに言われたとおり寝室のクローゼットを開ける。そこには3、4着のスーツがつり下げられていた。どれもユージーンの美的センスが最大限に反映された気品のあるコーディネートになっている。

「すごいね。まるで国王謁見の控室だ」

 ヴィンセントが鏡の前で見比べているあいだ、部屋の反対側からたばこに火をつける音がし、彼の様子を静かに、時折しげしげと眺めている様子のユージーンの気配が背後から感じられた。

「会見後の祝賀会にはきみも来てくれるかい。トリュフも多分出ると思うぞ」

「……きみの冗談に付き合ってる時間はあんまりないんだ。さっさと選んでくれ。ネクタイはそれにしとくか? そっちの薄緑のストライプ。そういえば、タイタンの空も薄緑色なんだっけ。おれはよく知らないけど。まあ、そっちの紺のスーツとは合いそうだな。無地でもいいが、ちょっと地味……」

「本気だよ。僕の友人として、来てほしい。会場は招待客だけだから遺伝子検査もない」ヴィンセントが本気だったと知り、少しのあいだユージーンの動きが止まった。

「それは……できない相談だな。そんな馬鹿げたことを言うなんて、宇宙線に少し頭がやられちゃったんじゃないのか?」

「僕は本気だよ」と、ヴィンセントは相手にかぶせるようにいった。とはいっても、それが出来ない相談だということは、言うまでもないことだった。仮に会場に遺伝子検査装置がないとしても、彼ら二人が同時に一箇所に身を置くのは、リスクの観点からそもそも危険な行為なのだ。全てを台無しにしかねない――おっと、台無しにするって、何を? ヴィンセントの夢が叶った以上、他に失うものなんて、べつに何もない……。

「そうか、君はガタカを辞めるつもりなんだな。それならそうともっと早く言ってくれたらよかったのに」ユージーンがヴィンセントの心中をぴたりと当てたことに彼は少し驚きつつ、彼は手を止めて振り向いた。

「まあね。ちょっと考えてるのさ。僕はもう宇宙でやり残したことはないからね、これで心置きなく残りの人生を過ごせるよ」ユージーンは返事をしなかった。ガタカを辞職するのは、いいアイディアとは思えなかったが、地上に無事に帰還した直後のいっときの気の迷いなのかもしれないのだから。

「ふうん。一年のあいだにすっかり老人みたいなことをいうようになったのか。その話はまた今度だ。早くスーツを選んでくれ――その、紺色のものは?」

「そうさ。“ウラシマ効果”ってやつ。知らないの?」得意げなヴィンセントの言葉に、ユージーンはうんざりといった表情で目を回した。ヴィンセントには宇宙に関するうんちくを長々と語るくせがあるのだ。

「祝賀会は何時まで?」

「たぶん、遅くなるだろうね。報道関係者につかまるだろうからね、僕は他の同僚よりもタイタンの話をせがまれがちなんだ。そうなれば長くかかるから、深夜になるかもしれない」

「そんなに?」

 ユージーンは少し驚きの表情を浮かべたが、すぐに目を伏せた。何かを自分に言い聞かせているようだった。夜にアイリーンと会う予定があることは言わないでいるのが得策そうだ。

「じゃあ、おれは君が帰るのを待ってる。あとでおれにもタイタンの話を聞かせてくれよ」

 ヴィンセントは微笑んで、紺色のスーツにタイタンの空色のネクタイを合わせた。

 

 

 結局その日2回目の帰宅は深夜になった。ヴィンセントはその日の夜にあった出来事を思い返していた。彼は、約束どおり祝賀会のあとでアイリーンに会い、グラス片手にタイタンでの研究成果などを話した。一年ぶりに恋人と過ごす親密な時間だった。ところが、二人が別れ際にキスをしたそのとき、アイリーンはヴィンセントが予想もしていなかったようなことを彼にいった。「しばらくこれでキスはできないわね」彼女はそう言った。ヴィンセントが訝しげにその理由を訊くと、返ってきた答えは「あなたには待っている人がいるから」ということだった。そして、物事がはっきりするまで会うのは控えましょう、とも彼に告げたのだ。

 状況をうまく呑みこめずにいるヴィンセントに対し、彼女はさらに驚くような話をした。話によれば、彼女はまさに今朝、地球へ帰還するヴィンセントのためにユージーンからサンプルを手渡してもらおうと彼の家に立ち寄ったところ、彼から激しい口論をふっかけられたということだった。聞けば、ヴィンセントが地球を離れているあいだ、アイリーンはアントンとともに、彼の生活必需品を家に運ぶのを手伝うなどして度々ユージーンの面倒を見てあげていたそうなのだ。

「なんでまた?」

「あなたがタイタンへ発った直後、彼から連絡があったのよ。私とフリーマンさん……あなたの弟さんにね。で、彼、いまは雑誌のフリーライターの仕事をしながら本を書いたり絵を描いたり色々やってるみたいなんだけど、作品を運んだりするのを手伝ってほしいって言ってきたの。それであなたの名前を持ち出して、私たちを呼びつけたのよ」

 ヴィンセントはその話がすこし信じられなかった。というのも、地球を発つ前にユージーンに預けっぱなしにしていた口座には数年間は十分に暮らしていけるだけの預金があったからだ。しかし手元の端末で確認すると、その口座からはほとんどお金が引き下ろされていなかった。ヴィンセントは手元から顔をあげて、「君とアントンがユージーンの手伝いをさせられてるってこと?」と訊いた。アイリーンが迷惑そうな表情で頷くのをよそに、ヴィンセントはその話を聞いて笑い出しそうになっていた。

「なんでも半年前に出した本がものすごく売れたとかで、仕事に使う道具や資料をときどき私たちを呼びつけて運ばせるのよ。情報漏洩がいやで業者には頼めないからって。すごく人使いが荒いのよ。“私もアントンも”もううんざりなの。あなたからもなんとか言ってくれないかしら」

 ヴィンセントはその話を聞いてユージーンの変り様にまだ疑念を取り払うことができなかったが、一点気になる点を言えば、午後に車の中でアントンからもまったく同じ話を聞かされたことだった……。

 

 螺旋階段を、足音を立てないようにそっと降りていくと、少し降りたところでその気遣いは無用だとわかった。奥の部屋から見えているたばこの煙に向かってヴィンセントは口を開いた。

「まだ起きてたの?」

 眠そうなユージーンが顔を出す。

「うん。眠れなかったんだ。それにタイタンの話が気になってね」

 ヴィンセントは眠そうに目をこすって、上着を脱ぎながら話し始める。

「タイタンか。タイタンは――空気のほとんどが窒素でできていて、わずかにメタンや水素もある。重力は地球の約1/7で、地球と比べて太陽から約10倍も遠いから地上はずっと暗い。ぼくら研究員はアンモニアの雨に当たらないように船外活動用のスーツを着て探検するのさ」

「それで何か見つかったのか」

「いや、何も。というよりいつも通りと言うべきかな。あそこにはただ豊富な水素資源があるということだけ」

「水素?」

「そう、惑星間探索に欠かせない燃料さ。次の任務では水素資源の掘削と運搬が中心になる」そこまで聞いてユージーンは少し黙ってしまった。彼が訊こうとして口に出せなかった質問にヴィンセントは答える。

「しばらくは地球で過ごせそうだよ。次の出発までは……そうだな、準備期間を考慮すると……あと半年は地球で過ごせると思う」

「半年? そんなにすぐに?」

「ああ、任務に適した人員は限られるからね」

 ユージーンはヴィンセントの話を聞きながら、無言で彼の袖口についた赤い色素を横目で見た。

「ところで君は、今夜アイリーンとも会ったのか?」

「うん。彼女、元気だったよ。なんで?」

「いや。ただ気になっただけさ」

 言うまでもなくそれは、女性が使用する化粧品由来の色素を顔から――あるいは体のどこかから――拭き取られたときについたものと思われたし、ヴィンセントがアイリーンと交わしたキスのときについた口紅と考えるのが自然だった。

「アイリーンは今朝、君に会いに来たそうだね。ものすごい剣幕で追い返されたってさ。彼女は僕らのことをわかってるからまあいいが、それでも僕の同僚にはもう少し優しくしてくれると嬉しいね」

「君の“同僚”ね」

 ヴィンセントはわずかに眉間に皺を寄せ、目を伏せる。それは明らかに、地上に帰還した直後の宇宙飛行士が、友人にかけてもらいたい言葉ではなかった。ユージーンは口を滑らせたのをすぐに悟った表情をしたが、彼はほんの一瞬口をもごもごさせただけで、それ以上の弁解の言葉は出てこなかった。

 2、3秒という間、気まずい空気が互いを交錯し、沈黙が流れたが、次の瞬間ヴィンセントは驚くほどの早さで話題を切り替えた。

「それで……教えてよ、君の旅の方はどうだったの?」不快な質問に答えたくないときにヴィンセントがすばやく表情を整える様子を、ユージーンは予感めいたまなざしで見ていた。

「ごめん。今のは忘れてくれ。――旅は、まあ悪くなかったよ。もう遅いから、また明日にしよう」

 ヴィンセントが煙草の火を消し、時計を見る。

「すっかり遅くなったな。明日が休みで助かった。そろそろ寝るよ」ヴィンセントは立ち上がる。友人を寝室に運ぶのを手助けするため、ユージーンの車椅子のハンドルに手をかける。すると袖口についている赤い染料に目がいった。ああ、これか……。ヴィンセントがさっきの不快な会話について補足しようとしたが、先に口を開いたのはユージーンの方だった。

「ヴィンセント、さっきはごめん。そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。おれはただ……」

「いいんだよ、気にしないで。君には苦労をかけてるからね」

「いや、本当にすまない。おれが言いたかったのは、」

「いいから。気にしないで。それに……君には本当に感謝してる。何から何まで。こんなに夜遅くまで待っていてくれたことに対してもね。もう一度君に会うことができてよかったよ、ユージーン。心からそう思ってる」

 ヴィンセントは、ユージーンの両脇を持ち上げ、彼をベッドに寝かせる。一年のタイタン勤務の間に以前よりも鍛えられたのか、易々とした動きだった。

「で、今朝にアイリーンに喧嘩をふっかけた原因ってなんだったの? 彼女は親切心から来てくれたんだぞ」

「いや……今朝は、その……まあ、悪かったと思ってる。ちょっとイライラしてたんだ。その……ロケットが大気圏で空中分解してしまわないかとか、君が船内で頭をぶつけたりしないかとか余計なことが気になって……。次に彼女に会ったらおれから謝っておくよ」その言葉を聞いて、ヴィンセントにはユージーンの本心がわかった。

「彼女、もうしばらくは家に来たくないってさ」と、ヴィンセントがちょっと意地悪っぽくいうと、ユージーンはほんの少しうろたえた様子ですぐに目を逸らしてしまった。

 それからヴィンセントは以前と同じようにユージーンが身に付けているものを外してやろうとすると、その手を制止された。「一人でできる」。アイリーンの話を蒸し返され、ユージーンの声にはわずかに不快感のような後ろめたさの色が滲んでいた。

 ヴィンセントは相手のいうがままにさせ、静かにベッド脇に腰をかけた。ユージーンが就寝のために身の回り整えるのを眺めている間、彼はさっきの続きを話し始めた。

「タイタンの空の下はこっちとはまるで別世界だったよ。残念ながら生命の兆候は微塵も見当たらなかったが……少なくともこれを僕らは見つけたんだ」

 その言葉を聞いて興味深そうにユージーンが振り返る。ヴィンセントの右手には暗青色のなにか結晶のようなものがおさめられていた。

「石?」

「そう、タイタン石」

 ヴィンセントはその鉱物のかけらをユージーンに手渡した。「光に照らしてみて。格子状の模様が見えるだろ。この石はね、タイタンでは珍しくもないんだが、地球上ではまず見つからない。タイタンの気象条件と重力のもとで年月をかけることでしか形成されないものなんだ」

 ユージーンはベッド脇の明かりに石をかざした。ヴィンセントが言うように石の中には、無数の小部屋のような光の枠が幾重にも連なっているのが見える。光の入射角によって、それらは向きを変え、たくさんの微細な点が、数立方センチメートルの世界の中できらめいていた。

「きれいだな――こんなのを見たのは初めてだ」

「それは君にあげようと思ってさ」

「いいの?」

「もちろん。今度帰ってくるときにはまた仕入れてくるさ」

 ヴィンセントは冗談っぽくそう言った。「……きみがさっきから気にしている件は、明日に話そう。きみと僕のこれからのこともね」

 ヴィンセントは眠そうに眼をぱちぱちさせる。立ち上がろうとしたとき、壁にかかっている一枚の絵が目に留まった。それは一年前まではなかったもので、午後に寝室に立ち寄ったときにはあれば気が付いているはずで、明らかに、今日の午後から夜のあいだに壁に取りつけられたものだった。その絵は、簡素な額縁とともに飾られていて、遠目からは筆づかいや絵の具の扱いは荒く、何の絵か一目では見分けがつかなかった。しかし、ヴィンセントはその絵が何か彼にとって見覚えのある風景を切りとったものであることがすぐにわかった。彼はベッド脇から立ち上がり、絵に近づいてみて、細部までたしかめてみた。するとすぐにわかったことには、その絵は星空の下で天体観察をしている人物の様子を描いたもので、右下に小さく描かれた二人の人物の姿は……

「その絵はおれが描いたんだ」ユージーンが後ろからたどたどしい口調でそう告げた。

「これを君が描いたの? 君に絵の才能があったなんてね」

「まあね……ずっと一人で家にいるのは退屈なもんでね。君のおかげで生活には困ってないが、酒をやめてからシラフの時間が増えてしまってさ、それで絵を描いてみることにしたんだ。これが思ったよりも楽しくてね。ちょうどいい暇つぶしになったよ」ユージーンは自作を謙遜する様子をみせずにそう続けたが、絵の描き込みの細かさからは、この作品が一年の間にかなりの時間をかけて描かれたものであることがうかがわれた。ヴィンセントは、地上にいた頃に一度ユージーンと共に星空を見に出かけた時のことを思い出していた。

 吸い込まれそうなほどに深い暗青色を背景に、星の光の一点一点のまたたきがキャンバス上で今も明滅している。ちょうどタイタン石と同じように。そんな気がした。まるではるかな宇宙空間を、いつまでも時間を忘れて旅しているかのような気分が味わえるような絵だと、ヴィンセントはそう思った。

「なんといえばいいんだろう――すごくいい絵だよ」

「君が気に入ってくれたのならよかった。完成したのはつい最近なんだ。絵を描いてるあいだはちょっとした旅に出ることができた。当初予定していた旅とは違ったけどね。いい旅だったよ」

「君の旅か……ところで、右下にいるのは、ぼくら?」

「うん――まあ、そう。……ヴィンセント、ちょっとこっちに来てくれよ」

 ヴィンセントは言われたとおり、ユージーンの方へ歩いていく。そのあいだ、目はまだ絵を見ていた。ユージーンのすぐ隣に腰を下ろしたとき、ユージーンはとっさにヴィンセントの首に抱きつき、こう言った。「ヴィンセント。君が無事に帰ってきてくれて本当に良かった」。

 ユージーンは、そのまま相手を自分の方に引き寄せ、にやっと笑って、勢いに任せて後ろへ倒れる。それに引っぱられたヴィンセントはわずかに驚いた表情をしたが、すぐに相手を抱き返した。重力よりも強い力で引き寄せられたヴィンセントが相手の体の重みを全身に感じたとき、ヴィンセントはたしかにその一瞬に、「家」に帰ってきたのだと心から思った。「ただいま。ユージーン、僕の方こそ君が無事でいてくれてどんなに安心したか、わかるかい」ユージーンは答えなかった。その質問が何を前提にしてなされたものであるのか、彼にはわかりすぎるほどにわかっていたし、それに対して彼は答えを持ち合わせていなかったから。相手を抱き返す腕の力こそが答えだった。

 

 二人はしばらくのあいだそうしてお互いの体の重みと呼吸を感じていたが、何分ぐらいたった頃だろうか? いつまで経ってもヴィンセントがその体勢から動く気配が感じらず、すこし痺れをきらしたユージーンはヴィンセントの耳元で言った。「おい、君……ちょっと重いんだけど」。返事はない。ユージーンは自分の体の上の重みがすっかり眠りこんでしまったヴィンセントの重みなのだと、少し遅れて気がついた。

 ユージーンはため息をついて、すこしヴィンセントを脇にどかし、ベッドサイドの照明を消す。そのついでにタイタン石を取り、月明かりにかざしてもう一度覗きこんでみた。月の明るさでもいくつかの光の枠がよく見える。タイタン石の小宇宙に閉じ込められた光の小部屋が互いに反射し、あたりの闇に溶け込み全く見えなくなるまで、合わせ鏡のような光の廊下がどこまでも続いている。

 全身が脱力し、それ以上動く気配のないヴィンセントの穏やかな寝顔を見つめながら、ユージーンは誰にも聞こえないように言った。

「おかえり、ヴィンセント。おれもずっと君に会いたかったよ」

 彼は静かに眼を閉じる。まぶたの裏にはさっき月明かりの元で見たタイタン石のなかのきらめきがまだ残っていた。