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私の好きなトピックについて気ままにつづるブログです。洋楽の歌詞和訳や映画の話など。

悲しいほどに美しいこの場所には希望が同居している『ゴッズ・オウン・カントリー(God's Own Country)』

from imdb.com "God's Own Country"

奇跡のような作品。純度100%の奇跡。とても刺さりすぎてしまい、何度も繰り返し見て、配信全盛期の今さらに円盤まで買ってしまった本作。

『ゴッズ・オウン・カントリー(God's Own Country)』は珍しいタイプの恋愛映画だなと思った。恋愛映画は世の中に星の数ほどあれど、これでもかというほど、愛が育つ過程を綿密に描きだそうと試みた作品は珍しいと思う。

監督はフランシス・リー、脚本も同氏によるもの。つまりはフランシス・リー・ワールドともいえる世界観。

美しくも厳しい自然。際限なく続く日々の肉体労働、荒涼とした大地を照らす慈しむような朝日。その土地から出ることなく(出ることができず)感情を閉ざしてその地で暮らさざるを得ない孤立と孤独感。闇に差し込む一筋の光。愛の始まり…それから、チーズ作り。

何度も繰り返し見すぎ思いが強すぎるせいか、本エントリは非常に長文となっていますが、ざっくり要約すると『ゴッズ・オウン・カントリー』(以下、GOC)には恋愛映画で私達(複数形!)が見たいと思う要素の「すべて」が入っているということを、不肖私が断言するだけのエントリになります。6月の日記を掘り起こしてブログ記事にしたもので、初見時の衝撃に突き動かされGOCヴァイブスが命じるままに勢いで一気に書いたもののため、一部文章にまとまりがなく読みづらくすみません。以下ネタバレを含みます。

 

 

 

 

この作品は、ジョニーとゲオルゲのラブストーリーであると同時に、(そして私が何よりも美しいなと思った点でもあるのですが)、ジョニーがゲオルゲによって「愛すること」を教えられ、それを実践に移すことで、彼を取り巻く周囲の状況が少しずつ変容していくさまを目の当たりできることが、この映画を類稀な存在にしていると思うのです。

 

ざっくりざっくりあらすじ

ヨークシャー地方で祖母と気難しい父とともに牧場を営んでいるジョニー。牧場での重労働に加え、コミュニティを去ってしまった人たちに向ける寂しさやおそらく母に家を出ていかれた敬虔からか、他人を愛せなくなってしまい、多すぎるアルコールと行きずりの関係に逃避する日々。その横顔にはどこか寂しげで、生来の孤独と向き合っている様子を宿している。そこに羊の出産シーズンだけの仮雇われでルーマニア移民労働者のゲオルゲがやってくる。父親からの評価はともかく自分一人だけで牧場を切り盛りできると自負しているジョニーにとってゲオルゲの存在は異物そのもの。はじめ敵意むき出しでジョニーは彼に接するが、その有能な働きぶりや愛情深さに接するうちに徐々に彼に惹かれるようになる。やがて二人は愛し合うようになり、ゲオルゲはジョニーにとってなくてはならない存在となっていく。二人の関係の発展とともに牧場の仕事も軌道に乗りだしたところで、ある日、父親が発作に倒れてしまい、牧場維持の重圧がますますジョニーにのしかかってくるようになる。

 

 

初見から2ヶ月続くGOCヴァイブス

この作品が好きすぎるんですよね。初見は一体何が自分の上を通過していったのかわからないまま画面の前で呆然となっていた。6月に初めて私はNetflixから観たのですが、そこから丸々二ヶ月、この作品の何がそんなに好きかを考えさせられる日々を送りました。なにを好きかと聞かれたら今はもう「すべて」だという凡庸な回答になる。だってこの作品すごくいい。愛なんていらない一人で生きていくんだと固く思っていた田舎の孤独なゲイのところに愛情深いイケメンがやってきて、優しくされて、生傷を舐めてもらったり、愛情深い仕草で凍りついた心が徐々に溶かされて、ほだされて、実は両思いで惹かれあっていてXXXしまくる映画がよくないわけがない。ありがとう、フランシス・リー。この世にゴッズ・オウン・カントリーをもたらしてくれて。『ブロークバック・マウンテン』で負った数年来の深手が癒合していくのを感じた。

なんといってもジョシュ・オコナーの表情・演技がとても巧みだった。セリフはごくわずかなのに視線やボディランゲージといった非言語コミュニケーションが駆使されてい、その情報量がとにかく豊富で、むしろセリフで全て語られるよりも、というかセリフがなくて解釈に幅が生まれるぶん、情報量が指数的に増えていくかのような感じで圧倒された。とにかく情報量の洪水なんですこの作品は。情報量の洪水に思わず大阪府在住のノアが箱舟製作に乗り出すのではないかと思った。

GOCのどこが好きかを一言で表すのは難しい。でも、あえて挙げるなら、それは本作が愛によって世界が変容する様を描いている作品であるから好きなのだと私は思う。主人公はゲイであるがそれは本作の主題ではなく(『ブロークバックマウンテン』では一貫してその葛藤が描かれていたのとは対照的に)、本作でとことん突き詰めて描かれているのはあくまで「愛すること」について。メインテーマはもちろんジョニーとゲオルゲが互いに惹かれあっていく恋愛ではあるが、家族愛についてもサブテーマとなっている。

愛することに、どんな力があり、昨日までの世界を一変させ、色彩を与え、抗ったところでいかに自己が無力であるかと思い知らされ、それを必要とし、そして愛を得るためなら手段を選んではいられないことについて、言葉少なに、いかに行動で語らせるかということに本作は集中している。ジョニーはゲオルゲによって愛することを教えられ、それを実践に移すことで彼を取り巻く風景は少しずつ様変わりしていく。たとえば父親の入院先で不安いっぱいのジョニーにゲオルゲが指先でさりげなく触れるシーン。その指先の熱はまるで暗闇に灯ったろうそくの光。そのすぐ後、ジョニーは同じようにして病室で意識のない父親の手に触れる。反応はなくても、その手の熱が意識の暗闇の中にいる父親に届いていたことは、さらに後の場面で、ジョニーが父親を入浴させているときに「ありがとう」の言葉とともに、重ねられた手の熱がそれを物語っている。ここで言葉にされなかった言葉はきっと何千とあるだろう。この場面、大好きだー。

 

 

愛のきざし

山で仕事と生活を共にし、家畜への愛情深い扱いや、手の傷を舐めてもらったことで、ジョニーの方はゲオルゲのことが気になり始め、欲望を感じはじめる。経験したことのない正体不明の感情に困惑したのか、否定したいのか、ある朝、ゲオルゲにまたしても人種差別的な言葉を投げつける。ゲオルゲは今度ばかりはそれを受け流すことなく、ジョニーを押し倒して馬乗りになり、力づくで「調子に乗るな、おれを怒らせたらただじゃすまないぞ("I will f*** with you!")」とわからせる。顔と顔の距離、1cm!。ジョニーは雷に打たれたみたいにその場から動けなくなる。

距離が近くないですか?

その後も山での仕事と共同生活は続く。ジョニーはゲオルゲのことが気になる様子で、チラチラと作業の合間にチラチラと視線を送る。その視線に気づくゲオルゲ。はじめはお互いを盗み見るようにして観ていたのに、次第に視線がかち合うようになる。ここからの数十分間には恋愛映画で視聴者が見たい全てが詰まっているんですよ!いいですか…。

それから数日、一緒に寝泊まりするものの、夜にはどちらも寝付けないのか寝たふりを決め込む二人。炎がめらめら。そしてある明け方、ついにジョニーの方が制御不能になってしまう。ジョニーの欲望を薄々感じ取っていたゲオルゲはそれを受け入れる。ファースト・コンタクト。欲望に突き動かされるままに、ロマンスや愛の交流とは程遠い、なんというかこれは、「野外レスリング」?。

 

ファースト・コンタクト

「野外レスリング」で思い出した。いや、これ書くか迷ったんですけど、それまでお互いをチラチラと意識しながらも、山小屋での寝泊まりを経てついに”ファースト・コンタクト”に至るわけですが、どの時点で、いかにして合意が取れたのか? 私はこれがすご~~く謎で2・3回見返してしまったのですが(だってパッと見ジョニーから襲いかかってるようにしか見えないじゃないですか?)、流れとしては次の通りだと今は(勝手に)理解しています。合意は大事ですからね。でもこの場面はそもそも言葉で理解するシーンではないようにも思うので話半分に…。

明け方(お互い眠れなかったんですね…?前夜から寝不足が続いてそうです)、外で用を足しているゲオルゲのところに、ジョニーが近づき(手の位置…)、ゲオルゲは横目で気づいて「やれやれ今度はなんだ」とでも言いたげな顔。この場面の前からジョニーがちらちらゲオルゲに視線を送っていたことにゲオルゲは気づいていますし、視線がかち合ったときにもジョニーの気持ち(というか欲望?)を薄々感じ取っていているはず。そしてジョニーがゲオルゲにタッチ(手の位置…)、くんずほぐれつが始まる。ゲオルゲ、ジョニーに馬乗りになり、両腕を地面に押し付ける。この二人、体格差はあんまりなさそうですが、ジョニーの方は惚れた弱み?か制圧されてしまう。このときのアイコンタクトで互いの気持ちを理解し、このときに合意があるのですね。そして互いの衣服を剥ぎ取り…略。

↑のこのパラグラフ、そこが気になって繰り返し再生する心の汚さ?を自覚せざるをえないので後から恥ずかしくなって消したくなるかもしれないと思いつつも、合意の瞬間は、二人の関係をこれまでの経緯も踏まえ根本から決める重要なポイントと個人的に思うのでやっぱり書いておくことにします。

心が汚いついでに、この場面に先立つゲオルゲがジョニーの生傷を舐めるあの場面。これってなんのメタファーですかね~?!体の裂け目に他人の体液が入ってくる表象…って~?!?!メタファーではないのか??心が汚れすぎなのか??この場面もそうですがジョニーとゲオルゲでは唾液の使い方が全く異なる点も興味深いと思うんですね。ジョニーの方はゲオルゲに会うまでは、唾液というのは後腐れないXXX時に吐き捨てるようにして使われるものであった一方、ゲオルゲの方は、(おそらくは愛する者の)傷口を消毒し、癒しを促進する目的で使われている点で対比されているように思えるのです。生傷を舐めるシーンは二回出てきますが、二回目の方は「もっと自分を大事にしろよ」っていうゲオルゲのメッセージが感じられると思います。冒頭にも書きましたが愛なんて必要ないと固く思っているところにこんなことをされたらもう好きにならざるを得ないのでは???。

話を戻して、ファースト・コンタクト場面。最初に見たときは唐突な印象も受け、なぜジョニーがあそこで行動に出たのかすぐには腑に落ちない部分もあったのですが(だって明け方に人が用を足しているところに近づいていって攻撃的に掴みかかるわけですからね??相手のサインを正しく理解していなければもっと悪い結果にもつながったはずと思うのです)、同じように思った人は少なくないようでレビューを観てもそこが理解できないというコメントが散見されます。この点、tumblrの方に非常に洞察が深い方のブログがあり、その方の言葉も借りながら私なりに解釈を加えるとすれば、ジョニーがゲオルゲに惹かれだしたのはおそらくもっと早くから、おそらくは初めて見たときからではないかと思うのです。それまでは無意識のうちに彼に惹かれており、冒頭の彼はその感情を適切に処理できずに冷淡な態度を取り、人種差別的用語を投げつけるわけですが、心には未知の感情に対する恐怖心が渦巻いており、しかし次々に湧き上がる感情に適切に対処できず、さもしいともいえるやり方("playing a little game")でゲオルゲに接した結果、彼を怒らせてしまうわけですが、本心では相手の関心を引き付けたい一心であり、そして、ゲオルゲから(顔と顔の距離が1cmの)強い反応が返ってきたことでそれは達成されて、その強い反応があったからこそ「ファースト・コンタクト」となる動機に至って、ついに互いの感情をまっすぐにぶつけ合う形で表面化した、というのが私の解釈です。

一方でゲオルゲの方の「サイン」がどこにあったかというのが未だに悩ましいなと思っているところで(わかった方いますか…いたら教えてください)、野外レスリングを仕掛けたのはジョニーの方からでしたが、ゲオルゲの方はおそらくもっと早くからジョニーのことが気になっていたのだろうなという気がしてるのです。つまりこの二人は初めて会ったときから惹かれていたという、一目惚れ仮説です(全人類が大好きなやつですね!)。ゲオルゲの方は牧場に到着してからも覗き見るようにして窓の外のジョニーの様子を何度も何度も伺っていましたからね。この時点ではまだジョニーの方はゲオルゲに敵意剥き出しの反応しかしていなかったけれども、祖母と父だけで暮らし、仕事で成果を上げたいものの空回りしている様子のどこか幼さも残るジョニーをゲオルゲの方は最初から可愛く思っていたんじゃないのかという気がしてるのです。初めから少し年下のそんな空回り気味のジョニーを可愛く思っていたのではないだろうかと。そう思います。

ファースト・コンタクトの野外レスリング後、二人はどうやって?どんなテンションで?山小屋まで戻ったのか個人的にかなり気になっている謎ではありますが、とにかくジョニーの方はゲオルゲの隣で欲求がすべて満たされピクリとも動かず深く熟睡。その横顔を戸惑いのような、疑念のような目で見つめるゲオルゲ。ここ、この場面が、本当に、本当に美しくて。忘れられません。寝不足も解消。ディヴァインよーーー!!

それからこの場面、ゲオルゲの腕枕でジョニーが寝ているのか、それともジョニーは単にゲオルゲに背を向けて眠っていてゲオルゲはその横顔を見つめているだけなのか、映画のカットからはどちらともとれるように思え、真相が知りたくてしょうがありません。何度も見返したものの、ジョニーの寝顔→ゲオルゲの手→ゲオルゲの顔→ゲオルゲ起き上がるの順に流れ、腕の位置的におそらく後者のような気がしつつも、できれば前者であって欲しい!という気持ちが非常に強いです。

 

あとは坂を転げ落ちるだけ

ファースト・コンタクト時、ジョニーの方は、制御不能に陥っているものの、このときはまだキスを頑なに拒んでいるし、ワンナイトで済まそうと思っている。翌朝、何もなかったかのように装い朝食を食べるジョニーに戸惑いの目で見つめるゲオルゲ。目と目が今度は自然にかち合う。ジョニーの方は昨夜なにも起こらなかったかのように振る舞う。そして二人は仕事に戻り、また何事もなく一晩を過ごす。ゲオルゲは死んでしまった子羊の皮を剥ぎ取り、母親に見捨てられた別の子羊にその皮を衣服のようにして着せてやり、子を失ったばかりの母親のところに戻してあげる。それを見たジョニーは初めてゲオルゲに笑顔を見せる。(この場面は母親に出ていかれたジョニーの境遇とも重なるものがあると思います)。

そして二人はやがて心を通わせ、二回目の山小屋での場面。それまで頑なにキスを拒んでいたジョニーだけど、一度でもキスをしたらあとはもう陥落するだけなのがわかっている。この期に及んでまだキスを拒むけど、ゲオルゲに優しく触れられ、ついには自分から何度も何度も求めるように顔を近づける。あとは坂を転げ落ちるだけ。外では風が吹きすさぶなか、山小屋の中は熱気が充満…。ディヴァインよ…もう言葉で説明するのがあまりにも野暮すぎてこれ以上は書けません。

ここから先の展開はひたすらにHOTで、愛し合う二人の湯気がむんむんです。ありがとう、フランシス・リー(2回目)。狭いバスタブに180cm以上ある成人男性二名がつめかけ、もう少し牧場に残るとゲオルゲが言ったときのジョニーのあのうっっっれしそうな顔! それから、作ったパスタの味がうすいのをジョニーの表情で察して塩をかけてあげるゲオルゲの場面。もはや言葉では尽くせない尊さの大平原。

 

 

純粋な愛の物語

フランシス・リーは元俳優で、本作が初の監督・脚本作品。インタビュー記事をいくつか読んだが、作中でもそうであったように、配給側の恣意的な区分とは異なり、私がこれまでのところいくつか読んだインタビュー記事の範囲では得られた感じだが、彼は本作をクィア映画の枠に落とし込んで語ることを避けているように見える。ただ純粋に愛の物語だと。ただ、気になるものが全くないかといえば嘘になる……イギリスの片田舎、労働者階級の閉塞的なコミュニティに身を置く主人公。宗教はおそらく英国国教? ゲイとして生活していくことに葛藤や周囲の目が気になったりはしないのか? それともそれはもうとっくの昔に受け入れていることであり、今更なにかを変えるつもりもないということなのか?(円盤の特典映像に、削除シーンとしてゲオルゲと出会う以前のジョニーの自由奔放な(見境のない?)性生活が描かれる場面があります。削除シーンなので話半分にくらいに見ましたが、ジョニーというキャラクターの一つの側面として)。家畜のオークション会場で見つけた若いかわい子ちゃんと目が合うだけで仲良く(?)なれたり、パブに行けば金髪お肌つるつるの坊やがいて、トイレでなんとなくよろしくできたりと(さらに目撃されたりと)、そんなに自由なライフスタイルが可能なの?と思わず気になってしまった。そこんところの事情が「an elephant in the room」的に否定されている感は多少あったかもしれない。誰もが日々の暮らしに汲々とするあまり他人への関心が薄れ(その割にパブの店主と常連がゲオルゲに向ける視線は冷たかったが)、他人の性生活には立ち入らない自由な土地柄となっているのかもしれない。

フランシス・リー本人の言葉によれば(インタビュー記事にあり出典がすぐに出てこないので出てきたら追記します)、本作の舞台となったヨークシャー地方は彼が生まれ育った場所であり、今も彼の父親はそこで牧場を営んでいるそうで、厳しい自然との戦いのなかで他人に対して関心が薄い環境であるとのこと。フランシス・リー自身も、本作を執筆するに至った動機として、自分が生まれ育ったこのヨークシャーの環境でもし愛する人を見つけることができたのなら?という思いに端を発していると語っている。

それにゲイであることに葛藤を見出すことは、2005年にアン・リー監督の『ブロークバックマウンテン』が既にやったことであり、公開された2017年の当時、フランシス・リーの「それはもうええやろ」という確かな意志が画面に映し出されていたようにも思う。(大阪弁かどうかは知りません)

というか別にそこんところがノータッチでもジョニーとゲオルゲ愛し合っていれば他は全て吹き飛びますね。細かい点のお話でした、はい。

 

 

GOCは2017年版『ブロークバック・マウンテン』なのか?→否

2005年アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』(これ劇場で見ました…原作も読みました…サントラも持ってまぁす…)と比較されることが多い本作ですが、確かに自然豊かなヨークシャーの農場を舞台に、男性同士の恋愛を扱う点で似てはいるし、見覚えのあるカットや下敷きにした部分もありそうな内容ではありますが、『ブロークバック・マウンテン』ではジャックとイニスのセクシュアリティーとそれにまつわる葛藤が一貫したテーマだったのに対し、本作はそうでないという点で重要な違いがあります。2017年現在、もうそれはとっくに問題ではないという確かな意志があるように思えてならないんですね。

 

from "God's Own Country" BMでも見覚えのあるカット

 

重要:配信版とBlu-rayの違いについて

いや私が勝手に重要なことだと認識しているだけなのですが、2022.7現在本作は配信もされており、内容はBlu-rayと一致しています。公開当時、配信では例のXXXシーンを勝手に配信側で検閲され?無断でカットされたために監督フランシス・リーが激怒したという情報がありましたが、現在は私が知る限りではNetflix版と日本国内で手に入るR2のBlu-rayにカット場面などはないと考えています。しかしながらですね、配信と円盤には違いがあります。それは…モザイクなのです。あーまたこれか。仕方ないですね。ここはR2、日本ですからね。Blu-rayの方には本作の「見えすぎ問題」と戦った形跡が見られますが配信版ではノーモザイクです。そこんところが気になる紳士淑女は配信版からどうぞ。そこプッシュするところなのか!ということを恥ずかしげもなく書いてしまってますが、はい、「プッシュするところです」。

from netflix "God's Own Country"



ということでこのまとまりのないエントリをここまで読んでくださった方がもしおられればそれはもう奇跡です。本作をもし未見ならば、ぜひ!、観てください。

 

 

2022/07/30追記

7月はGOCのことで頭がいっぱいだった。あれからネット上の資源を舐めるように隅々まで読み歩き、フランシスリーやジョシュオコナーのインタビューでも繰り返し触れられていたキーワードとして

vulnerability (弱さをさらけ出すこと)

・emotional availability (他者と感情的につながること)

このふたつがあった。それから、Hope。これはフランシスリーも繰り返し述べていることで、本作には他の多くのLGBTQ映画とは違い、一貫して希望が通奏低音として流れている。この部分にわたしが特に惹かれているのだけれど!

これについては現在も続くGOCヴァイブスによってネット上に散らばる記事やインタビューを読み歩いているところなので更になにか思いついたら追記したいと思います。

 

 

↓エンドロールで流れたPatrick WolfのThe Daysという曲。GOCの世界観を一言で表す曲のようです。寂しくも儚いいまだ残酷さを残す世界に差し込む一筋のかすかな、希望の光。

 

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