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私の好きなトピックについて気ままにつづるブログです。洋楽の歌詞和訳や映画の話など。

この甘く切ない絶望 テリー・ホワイト『真夜中の相棒』を読んだ

 

 

いや~ひさびさにすごいものを読んだ。この作品はおととしに『傷だらけの天使』にハマった頃に知りずっと気になっていたもの。

すごいものを読んだ直後は動揺して心拍数が上がる気がする。そういう読んだあとに心臓がドキドキしてくる小説に巡り合うことは少ないのだけど、それがする作品は本当にする。もはや持病というか体質でしょう…。

 

いや、それはさておき、とにかく本作なにがすごいって、徹頭徹尾、愛し合う二人の物語なのだけど、それがはっきりした言葉をともなって形になるのはずっと最後の方。そこにいたるまでは、ツキの悪い博打好きの退役軍人と頭が少しぼうっとした映画好きの二人が、都会の底をさまよい、行くあてもなく互いだけを支えに、逼迫したろくでもない日々をやりくりしていくという鬱屈としたもの。まさに『傷だらけの天使』の世界観だな~と。ジャンルとしてはノワール小説とだけあって情景がやたらと暗い。しかしその暗さは後半に差し掛かるにつれて、むしろ主人公二人が生きる(生きざるを得ない)救いのない現実をありのままに述べるだけ、読者に報告するだけ、というそんな単調な響きが心地よくなってくる。読めば読むほど癖になりそうだった。そもそもあらすじからしてもう絶対にハッピーエンドは望めない点も傷天含め私の大好物である。

 

ノワール小説は70-80年代が全盛期らしく(私は今回はじめて読んだ)、Wikiによればアメリカのハードボイルド小説の影響を受けてフランスで流行したのだそうですが、今日を生きるのに精一杯で明日のことなんて考えられない未来への展望が抱けないという希望の薄さは冷戦中の雰囲気から醸成されたのだろうか。生まれていないので全くわからないですが…。とにかくノワール小説は暗黒小説(そのまんま訳)とも呼ばれ犯罪がはびこる世界をテーマに描くジャンルらしい。というと前段階としてチャンドラーの『長いお別れ』は必修科目のように思うが、数年前から本棚の肥やしになっておりわたしは読んでいない。読んでいない本だらけだ。いつか読まねばと思いつつもう数年ちかく本棚に積んでいる。読まない本を買っちゃだめだ…ということも再認識した次第だった。(めちゃ脱線)

 

 

とにかく本作は、幸せになりようがない二人組の話。戦場のベトナムで出会ったときからマックとジョニーは運命的な絆によって行動をともにしている。それは国への帰還後も続いている。マックは41歳、ジョニーは33歳という絶妙な年齢差、二人は他人同士だが、兄弟とも親子とも違う年の差。マックは人並みに常識的な行動ができるが、ジョニーの方は戦場で受けた精神的なダメージからマックの言葉では「子供のまま大きくなってしまった大人」の状態で、まともに社会生活を送れないという状況。マックは帰国後にそんなジョニーと縁を切ることもできたが、ジョニーの境遇に憐れみを覚えたのかマックはそうせずに彼と行動をともにすることになる。で、そんなわけだからジョニーの方はマックをまるで救い主のようにあがめている。

親を必要とする子のようにマックへの依存を深めていくジョニー。生活の面倒はすべてマックが片付けていて、金策やご近所付き合いも、他人にろくに口がきけないジョニーの代わりに彼がやる。いずれ破滅をもたらすとしか思えない繋がりの深さで彼らの帰国後の生活が続いていく。ある日、博打で作った借金を返せなくなったマックが地元の悪党にひどい暴行を加えられてしまう。それを見たジョニーは一人黙って復讐に向かう。ジョニーの殺しのテクニックは鮮やかだった。その一件が契機となり、地元マフィアのくびきから逃れられなくなった二人は殺し屋稼業に手を染めるようになる。

ここまで書いてあらすじが本当によくできていて嘆息してしまった。テリー・ホワイトすごい…映画化さもありなん…。

 

第一部のマックに対する依存の強さから、ジョニーはマックを一方的に必要としているのだと思っていたが、実はジョニーを必要としていたのはマックも同じということが徐々に明らかになってくる。結構えぐめの共依存なんですよね。いつか破滅しそうな。そしてあのラスト、あのラストーーーっ!!

 

本作は三部構成で、第一部がマックとジョニーの出会いから彼らの帰国後の日々。第二部が彼らを追う刑事サイモンの壊れゆく日常の話。そして第三部はそんな彼ら三人の日常がやがて交錯し、ついに結末を迎えるという構成。

 

以下、ネタバレになります。

 

本作にはサイモンという、マックとジョニーをしつこく追い回す二人にとって脅威となる存在が第二部から登場する。そんな彼は仕事のパートナーを「事故的に」ジョニーに殺された経験から心を病んでしまい、元刑事でありながら犯人を見つけ出すために手段を選ばず、これまた清廉潔白とはいえない人物。ここまで書いて、はじめは二人の仲を裂くために現れた嫌われ役かと思ったが、いやいやそんなどころではない超重要人物。彼はマックとジョニーの関係を決定的にするだけでなく、ラストで意外や意外、まさかそんなことになろうとはという重要な役目も果たす。私はこのサイモンの役どころが結構好きで、読後しばらくはラスト以後のジョニーとサイモンに妄想が止まらなくなった…。

サイモンは、相棒を殺した犯人の金髪の男(ジョニー)を、仕事も家庭も犠牲にして執念深く追い続け、ついにジョニー見つけ出すことに成功する。が、ジョニーは彼が愛憎に近い執念を向けるような相手ではなく、一人では生活もままならない大きな子供だったとわかったときから、彼の人生はまた狂い始める。

ところで本作の原題は「Triangle」で、三角形とか三角関係を意味すると思うが、邦題は「真夜中の相棒」である。真夜中の相棒というとなんかいかにもそれっぽいタイトルつけるなよなまったくもう!と中盤からやきもきしていたが、読後はもうこのタイトル以外に一切受け付けられなくなってしまう。真夜中に相棒がいるんですよね、彼らにはね…決してそういう意味ではなく、生来の孤独を癒やす存在としての相棒が。そしてそれを奪われたときには。

サイモンは相棒を殺されたときから、(もともと思い込みが強そうなタイプだが)精神に変調をきたし、執念深く金髪の男(ジョニー)を追うが、その過程で仕事も家庭も失い、マックやジョニーらと同様の孤独な身の上となってしまう。その執着の強さは愛情とも似て、彼がジョニーに向ける感情はいつしか愛憎の境がはっきりしない。

で、ついにジョニーを見つけた元刑事の彼は、殺し屋に報いを受けさせる。法によってではなく自らの手で。ちょうど自身が受けたのと同じ方法――愛する人を奪うことによって彼は復讐を果たす。自分と同じ目にあわせ復讐を完遂したものの、その後はなにも考えておらず、生きる意味を失って抜け殻のようになってしまう。そして、エピローグ。サイモンとジョニーはメキシコに流れ着く。メキシコでの新生活は、まるっきりマックとジョニーの生活そのもの…ジョニーは新たな庇護者を見つけ、サイモンは新たな生きる意味を見つける、ちょうどマックから引き継ぐようにして。同じ円環のはじめの位置に戻るように。

ちょっとうまくまとめられてる自信はないが、本作はラストもそうだけどエピローグの威力もちょっと普通じゃなかった。この後どうなるんだろう。それが気になって仕方がない結末だった。

マックとジョニーとサイモン。この三角関係。同じ円環に閉じ込められ、永久に逃れることができない者同士。エピローグから、ジョニーはおそらくサイモンを憎み続けるだろうが、一人では暮らせない弱みから、彼を頼り続けるだろう。初めから破綻した関係であるとはいえ、メキシコで新たな生活を送り始める彼らは互いに愛するものを奪われた者同士、いわば似た者同士として、意外にうまいことやるのかもしれない。

 

本作はひさびさに夢中で読めてしまった。テリー・ホワイトの他の作品も読んでみたいが、テリー・ホワイト名義で出版しているのは『刑事コワルスキーの夏』などそんなに多くないようだ。ジャンルがジャンルだけに別の男性名で著書も発表しているようだし。

 

ところで、XTCというイングランドのバンドに名曲「Making plans for Nigel」というのがあるのですが、個人的に、本作のイメージと重なる部分が多かった。

 

We're only making plans for Nigel
We only want what's best for him
Nigel just needs that helping hand
And if young Nigel says he's happy
He must be happy, he must be happy
He must be happy in his word

僕らはナイジェルのためにプランを立ててあげるだけだ
彼にとってベストなことをしてあげたいだけなんだ
ナイジェルはただ救いの手を必要としていて
若いナイジェルが幸せだって言ったら
本当に幸せに違いないんだ
そう彼の世界では

 

 


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周囲の世界から孤立し、自分の世界を生きるナイジェルのために、彼のためを思って(善意から)周囲はあれこれやってあげる。ナイジェルはそれを幸せだという。本人がそういうのだからきっとそうに違いないだろう。これは福祉がもつイメージそのものなのでしょう。

『真夜中の相棒』でもマックはジョニーのためを思って、あれやこれやをしてあげるのだが、生計のために殺し屋稼業に手を染めてしまうあたりからも、良かれと思ってしたことが決して良い結果につながっているわけではない。それは作中のマックの発言「おれはおれたちに良かれと思ってやってきたんだ」にも反映されている。

一方、ジョニーの方は、それが本人にとってベストでない計画だとしても、本人にはそれを表明したり表現するすべを持たないから、彼の内面にどんな世界が広がっているのか毎日顔を合わせるマックにさえ知るすべはないのだ。内面に広がる世界の現実とのつながりが希薄であるほど、外部はそれをみて、なおさらに本人によかれと思って最善の策を考えてあげることしかできない。実際、外部にできることはそれぐらいしかない。というイメージが本作の根底に流れていたように思う。この辺をまだうまく言語化できていないので、後日この記事は書き直すかもしれませんが、読んですぐあとの今のところはそう思う。

 

サイモンとジョニーはメキシコでの日々をどうやって暮らすんだろう?

マック同様、サイモンが金策に走り、ジョニーはそれを陰で支えることになるのだろうか。サイモンはおそらくジョニーを生涯許さないだろうし、ジョニーもまたサイモンを憎み続けるだろう。その憎しみを絆に転化して、日々の生活をおくるのだろうか…それって……萌えますね。ただサイモンが正気を維持できるかどうか。そこんところが気になってしょうがないし無限に書きたくもなるが、今日はこのへんで。

 

そういえば(まだあった)、作中でマックはジョニーを「坊主」と呼び、ジョニーはマックに対して敬語で接していたけれど、原作ではどうなっていたのか気になり、たまたま原作がAmazonアンリミで読み放題になっていたので、英語版を確認してみた。すると、マック対ジョニーにはまあ多彩なpetnameが使われていて、驚いた。私は純ジャパなのでこの辺の微妙なニュアンスの違いは想像するしかないのだけど、流し読みで見つかった範囲では、kid, kiddo, babe, baby, sweetheartなどなど…うーんこれって恋人じゃない相手にも使うものなんですかねー?! マックとジョニーは帰国後の6年をほとんど家族のように過ごしてきたけれど、それにしても親密さの度合いが家族以上恋人未満(恋人寸前?)のように感じられ、そこんとこ気になります。根底に流れていたのはもっと深い精神的な愛情のようでしたが…。ジョニーの敬語の方は発言にpleaseが多く使われている印象がしたので、たしかに、二人のパワーバランスとか対等でない立場を強調するものとして、ジョニーの発言が敬語に訳されていたのはその通りだなと。

 

 

著者のテリー・ホワイトはカンザス生まれの女性作家だそうで、本作が一番売れたのかな?映画化もされ仏'94年製作『天使が隣で眠る夜』として公開された。映画の方は未見。それにしても、ジョニー役を演じたのが『アメリ』に出演していたMathieu Kassovitz氏と知ったときはちょっと驚いた。なにしろ高校生の時に『アメリ』を見て、不思議な趣味を持つが心優しいニノの魅力にわたしはすっかりやられてしまったので、全く無関係と思っていたところから藪から棒に同じ俳優さんの作品に当たり、20年越しに同じ円環をぐるっと一周したかと思った。

最後の場面、まことに勝手ながら脳内BGMは映画『レオン』からレオンとマチルダが永遠のお別れをするシーンに流れていたBGMが脳内を駆けめぐり、胸が散り散りになりそうだった。

(👇のシーン、何度見てもほんと胸に迫るものがあっていつも無傷でやりすごせないな~)

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